寄り道建国日記

お出かけしたりスポーツ見たり日々をゆるゆる綴る日記

優越感のないアウトプットと向き合って

 

久々のブログ更新だ。
いつぶりのブログ更新かと思ったら、3月以来らしい。
3ヶ月ぶりではない、3月以来の7ヶ月ぶりだ。
しかもまだ3記事目だ。

 

なんでブログを更新できなかったのだろう。
そう考えていたら、「アウトプット」と「優越感」の関係に思い当たった。
以下思い出話から、アウトプットできなくなるまでを振り返ります。

 

 

むかしばなし


実はブログを始めたのは今回が初めてではない。
中2から高2あたりまでどっぷりやっていた。
もっぱら趣味に特化したブログで主にAKBを語っていた。
次のシングルの選抜予想とか、歌詞の分析とか真剣にやっていた、懐かしいな。
(別に黒歴史とは思わない。誰もが通る道である。)

 

というわけで、ブログをすること自体にはたいして抵抗感は感じないはずだ。


また、中高時代は自分の見識を周囲に伝えるもの好きだった。
英語ディベートなんかをやっていて、県大会決勝前で進み、全国大会までもう1歩だった。
なお、参加チームは2チームだった。田舎なので。
受験に小論文はなかったが、なんか主張の強い作文とかを書くのも好きだった。

 

そんなこんなで自分の意見を発信するのも好きだったはずだ。
高校生までは。
そう、高校生までは。

 

大学生になってから意見をまっすぐに言えなくなったと思う。
そう、大学生になってからだ。
自分の主義や主張や喉元に刺さり放しで口から出てこなくなってしまった。

 

ぼくはすごくない

答えは簡単。
自分より優秀にアウトプットできる人材がいっぱいいるからだ。
とどのつまり、中高時代の自分にとって、アウトプットは自己満足の要素を大いに含んでいた。


「周りの人が知らないことを知っている自分スゲー!」
「深いことや面白いことを言える自分の全能感!」
僕のアウトプットにはそんな傾向があった。自己満足だった。
そういうカラクリだったのか。

 

大学に入ったら、勉学だって、趣味だって、自分よりも詳しい人がゴマンといた。
例えば、高校ではAKBに一番詳しい謎の自信があった。今は全然そうじゃない。
そんななか、アウトプットオナニーができなくなった自分は、
少しずつ、少しずつ、主張したいことが喉元に刺さるようになってきたのだろう。
満足を得られなかったのだろう。

 

もちろん、中高時代は自分から他者を威圧したり牽制したくってアウトプットしていたわけではない。
でも、積極的にブログを書く。自分の意見を積極的に主張できる。
そんな時、深層心理で無意識で、優越感や自己陶酔という快感が伴っていたに違いない。

 

これからどうしようか


「優越感」のためにしかアウトプットできないとしたら、そんな奴ゴミクズでしかない。

社会で生きていけない。

 

なので、自分の中のアウトプットに対する考えを見直さなければいけないと思う。
アウトプットは相手にたいして優位性を見せつけるためのものではない。
他人を殴るためのカナヅチでは決してない。
単純に素直に自分の疑問や発見や提案を、文字という筆で描き出すものだろう。
言いたいことをまっすぐに言う、練習をしなきゃだな、と思う。

 

そんな僕に絶好の機会がある。

卒論だ。

卒論は俺詳しいんだぜ自慢でも、俺頑張っただぜ自慢でもない。
他者への優位のためじゃない、科学という営みの発展のために、
自身の発見と考察を、誰に対してでも分かることばで書かなければならない。

自分に足りなかったものだなと思う。


卒論を頑張ろう。
そうだ、卒論を頑張ろう。

優越感のないアウトプットと向き合いながら